第95話   庄内のケヅリ竿   平成16年04月19日  

庄内藩の殿様はとかく浮世に馴れ華美に走りがちな武士たちに鍛錬と称し、釣を奨励した。そこで暇な時間を釣にさいた。釣をすれば当然のように人より良い道具を持ちたいと云う事になる。食うに困らない武士たちは、手間隙を考えずひたすら良い竹を求め選びに選び抜いた竹で良い竿を作ることに精を出した。そして自分で自分に合う自分の為の竿を作った。

幕末の頃庄内藩の弓方総支配であった平野勘兵衛なる者、有名な釣師でもあったが、彼はそれ以上に幕末から明治にかけての有名な竿師でもあった。代々弓師であった平野家8代目の彼は弓を作る技術を使って、孟宗竹の表皮の部分を内側に入れ4枚に張合わせにし、それをニベ(魚の骨で作った膠で通常使われている膠よりさらに強力な接着剤)でぴったりと貼り付け、それを丸く削った削り竿なるものを考案した。流石に名人が作ったこの竿は、どんな大物が釣れても釣り上げた後、少しも狂わず直ぐに真っ直ぐになったと云い伝えられている。さらにその穂先は布袋竹のように非常に繊細なものであった。竿の表面から見ても四枚を合わせた継ぎ目はまったく分からないという代物であった。その技法を用いて作ったという、玉網等が残っている。

丁度其の頃、時を同じくしてイギリスのフライロッドの製作で著名なハーディ社が同じ竹(バンブー=熱帯地方に産する竹で挿し木でも繁殖する竹の一種)を使って内側を四枚合わせにし削って作られたフライロッドを製作している。竹という同じ素材を用いて、ほぼ時を同じくして作られた削り竿が考えられ作られていた事は非常に面白いと思う。昔歴史の先生に東洋と西洋は発明、工夫、同じ様な事件が、時を同じくして起きている事があると聞かされた。これも一つの例であろうか?

平野勘兵衛の削り竿は、わが国の弓の技術を利用した合わせ竿の先駆の一人と考えられるのであるが、竹の内側を表にし、表皮を中にして合わせる技術は他に類が無いと聞かされた。その後、大正から昭和初期の名人と云われた竿師山内善作が其の技術を研究し再現して見せたという。他には小物釣り用の為に唐竹(真竹)、孟宗竹を削って単なる削り竿を作った人は多数居た。その大半は一本のままか内側を二枚合わせにして作ったと云う削り竿の話である。

平野勘兵衛や山内善作等と同じ作り方で表皮を内側にした四枚合わせで穂先が非常に繊細な竿を作ったと云う話はない。彼らの竿作りの技術は繊細にして余りにも独創的な作り方であって、到底素人竿師達の作れるものではなかったのである。